洪 騰雲(こう とううん、閩南語: Âng Thîng-hûn、1819年(嘉慶24年)2月27日 - 1899年(光緒25年/明治33年)9月11日)は清朝統治時代の台湾における実業家。字は合楽(繁体字中国語: 合樂)。
人物
泉州府晋江県英杭(現在の福建省泉州市晋江市杭辺村)で出生、6歳時の1824年(道光4年)に父の洪汝璽と台湾に渡来し、滬尾街(現在の新北市淡水区)を経て台北の艋舺土治後街(現在の万華区)に居住した。当時は首都台南以外での学問は困難を極めていたため、父が入手した書物で学問に励み、福建での科挙で貢生となった。
父は艋舺でコメ商人だったが、成人後に騰雲が家業を継ぐと、乾隆時期以降に「一府二鹿三艋舺」と呼ばれたほどの艋舺自体の発展とともに両岸交易で巨額の富を得、台北に広大な土地を得るようになった。清朝末期の台北地区では李春生や板橋林家と並ぶ三大富豪として知られていた。
義倉を寄贈したり、災害時の慈善活動に積極的で、大甲渓で舟の事故が相次ぐと1874年(一説には1881年とも)に巡撫の岑毓英に対して橋建造を建議するだけでなく、資金集めに奔走し、作業員70名の派遣および建設中の賃金。食費、居住費用を提供するなど公共事業への貢献度も高かったため清朝政府から嘉奨されている。
また1880年代当時の台湾では孝棚(科挙の試験会場)が台南府にしかなく、約300km離れた北部の住民が往来するには困難を極めていたため、孝棚を台北に設けるべく台北城内北東角(現在の忠孝西路と中山南路交差点付近)の土地(約2,000坪)を提供し、2,000人規模の会場設置費用も負担した。清朝政府は騰雲に対し同知の職位を授与し功績を称えた。
1887年、初代台湾巡撫の劉銘伝はその功績を認め、光緒帝に騰雲の牌坊建立を嘉奨するとともに、公益への熱心さを意味する『急公好義』の扁額を授与した(急公好義坊)。石坊街(現在の西門町衡陽路)に設置され、その後二二八和平公園に移設されている。
1899年に逝去。騰雲は輝東と耀東の二子を残し、輝東は騰雲同様に実業家、慈善家として活動した。耀東は若くして逝去したが、耀東の子である文光は台湾民主国の議員、次男の文成(字は以南)は台北庁参事や淡水街長(現在の淡水区長に相当)などを務めた。洪以南の長男である長庚は日本に留学し眼科医博士となり、台北で眼科を開業した。
孝棚
台北の孝棚は日本統治時代には軍営地となり、戦後は1964年に台北市議会庁舎が建てられ、議会が1990年に信義区に移転後は台北市政府警察局中正第一分局が2007年まで使用した。警察が退去後は商業地として市が再開発を試み、洪以南が初代幹部を務めた台湾瀛社詩学会会員や、騰雲の子孫で洪啓宗(医師)、洪致文(学者、作家)などは市議会庁舎保存を訴えていた。しかし2016年、市長柯文哲の政策により撤去された。洪致文は台北機廠の全域保存を提唱していた市長当選前の柯を支持していたが、当選後に市街の歴史的価値のある建造物を次々と壊して開発に邁進する柯市政を批判するようになった。
家系図
脚注
関連項目
- 急公好義坊
- 洪致文


